笛吹き童子に

もともとは レミソラシ で調弦していたライヤーの音階が
ほっておいたら 全体的に微妙に下がり
なんとか音程を保持しつつも
Gだけが完全に一音ずれた。
つまり
レミファラシ になっている。
これが和的で 超いい。


じゅんくんが 爪弾くと
琴の音色を想像させて、
今日こそは、と持っていたリコーダーで 
篠笛もどきに吹いてみた。
軽く吹いても音量が勝ってしまい
ライヤーとの音のバランスがいまいちなのが気になったが
よくよく耳を澄ましながら
笛吹き童子に。


雷もどこへやら。
本物の琴がほしくなった。


in Takatsuki

更新書類作成開始

この暑さで 早くもバテ気味。
冷房で身体が冷えて調子を崩した。
(大学の温度設定が26度というのはおかしい。)


で 本日は授業も会議もなかったので休養。・・・といっても
ばたばたと
資格更新書類の作成で忙しくした。
10月末が締切だが
できるときにしておくのが大事。


5年ごとの更新で、今年で3度目となる。
この書類の作成が いつも面倒。
この資格をもっていたら臨床に何か影響するか、
といったら そんなことはなく
大学が認定校であるための専任教員の必要条件 なものだから 
もっとかないとしょうがない
といった気持が正直なところ。


5年前にさかのぼり、
せっせと 療法学会の参加記録や 講習会での講師記録などを取り出して
とりあえずファイルにまとめた。
まとめてみて今回も思ったのは
自分の出番がないと参加してない、というゲンキンさ。
認定講座に呼んでいただいていることをありがたく思った。


書き物が減っていることは最近の傾向。
そろそろ何かあってもいいかもな。


作業は4分の1ほど終了。
まだまだかかりそうです。

どうすればいいか・・

昨日の晩から
夫とともに 夫の母が住む実家へ。
義父は施設に入所して1年半がたち、
ほぼ寝たり起きたりしながらも
調子よくやっているようだ。
もうすっかり、私や夫など家族の顔は分からなくなっているが、
故郷の話をしてみると、
ところどころしっかり答えたりしている。
こちらが笑うと ほほほと笑顔。


一方 義母は 体調を崩し、急激に老いを見せ
義父の後を追うようにケアマネさんのお世話になり始めた。
義母の几帳面な性格が
あれこれと不安をかきたてるのか、
われわれには感じがたい物事の捉え方。
どうすれば、もっとも彼女のためにいい環境になるのか・・・。


背中を丸めて歩く老人をみると
だれもかれも が義母にみえてくる。

西宮の即興講座で

体を使ったワークをしましょう
という落ちで前回終了したものの、
実際 今日になってみると 
この暑さのせいもあってか 動く気持ちになれなくなった。
受講者さんたちもその模様。


どんなことから入ろうか と考えつつ
雑談の中からも見つからず、
特に浮かんでくることもなかったので
とりあえず1対1即興から始めてみることにした。
時間は決めない。
私がとめたくなったらとめる という石村さんの勝手進行。


とめたくなる時、というのは
奏者の音の出し方について尋ねてみたくなったり
みんなで考えてみたくなったりした時。
MTの現場を前提としているので
ClとThという役割を作って対峙するならば、
音の出し方に目的が存在してくる。


相手に寄り添うところから始めているか?
気持ち(音)が接近(模倣)しすぎていないか?
相手を閉口させていないか?
Clの音が生きているか?
Thの表現が埋もれていないか(遠慮していないか?)
ClもThものびのびできているか?


などなど
その時々の場面を見て聴いて ピンときたらパッととめて
みんなで考えた。
Th役にはあえてピアノに行ってもらい、
ピアノでの即興対応を中心に可能性を探る。


人それぞれの音があり、色があり 面白い。
どれが正解、なんてないけど、
納得のいく音のあり方を見つけたい。
見つかったかな?


頭の中がもわもわしてたけど
あっという間の90分だった。

シロフォン到着

高槻の病院の現場に
新しく 足の着いたシロフォンを入れた。
これまで使用してたものは
あの折り畳み式の 音がなんだか分かりづらい黒の木琴に似たような
それよりちょっとばかり上等のもの。
困っていた点は、
スタンドに取り付ける使用なため、不安定で、
しかも音域が狭いこと。
スタンドから外せば床に直接おける、
という点では 重宝するが、
不安定なスタンドでは ぶつかればガタッと倒れる危険性もある。


なので、
保管場所がてきたこともあって、
おきちゃんのお薦めの店で、安価で教育用のしっかりシロフォンを購入した。
本日からは ワークルームには 
遠慮がちに部屋の隅で出番を控えているシロフォン君がいる。
やはり足があると 様になる。
3オクターブも嬉しい。
響きもきれいなコオロギさん。


これからどんな音たちを生み出すかな。

ある裁判の物語から

ある凶悪犯罪事件の被害者の遺族が 長年の裁判の末に死刑判決を勝ち取るまでの物語を読み終えた。
もちろんノンフィクション。
犯罪者の元少年Fは最初に供述していた犯罪動機を
死刑判決が見えてきたことで履し、
それまでとは全く異なった内容を述べはじめた。
弁護団はその供述を用いて死刑回避をねらったものの、
逆に、そのよう一貫しない証言が不利になり、死刑判決が下る、という結末。
最近の出来事である。


これを読んで
自分が経験したことを言葉にしたときに、真実にもなるし、虚偽にもなる、という事実を改めて考えた。
Fは、覆した供述内容について、死刑判決が決まった後、
自分は真実を語っているのに、誰も信じてくれない、というようなことを述べていたという。
確かに、その内容はふざけたような印象を受けないでもないが、
犯行から数年を経て、
犯行に至る経緯を思い返し 当時の自分を振り返ってみたときに、
ひょっとしたら、
最後に語ったその内容が、彼にとっては もっとも自分の気持ちに近いものだったのかもしれない。
それを知るのはF本人のみ。 
が、
語り出すタイミングの悪さもあって、決してそれが判決を揺るがす力にはならなかった。
まぁそこまでのプロセスから考えれば、当然だと思う。



信じてもらえるか、もらえないか、
は さまざまな周辺要因が絡んでくることと思われるが、
当事者の気持ちに起こったことを言葉にしていく作業が
自分の運命を左右するほどに 裁判という場面は重い。
本当のことが、本当のこととして伝わらないために、苦しんでいる人もいる。


そのような重い場合は一概に言えないだろうけど、
原則的には
本当のことは、時間がたっても不動なようにも思う。
真実は揺るがないと思う。
自分の心に起こった出来事を、後になって振り返ってみて 気づいたことは、
嘘でなければ 時間が経っても同じであって、
変化したとしたら、
その時の気づきから何かが変わった、発展した・・・
というような方向なのではないかな。
それとも、
行動が先に来てしまっている場合は、
なかなか動機ははっきりしないものかもしれない。


なんかちょっと なにいってんだか筋になってしまったが
気持ちを言語化する吟味の仕方にこだわることの意味を少し考えた。